瞑想の構造を考える必要はないということだったけど、考えちゃう人間なのでつい瞑想しながら考えてみた。
なぜ身体に注目すると心が治療されるのか
瞑想は体を平常心で見つめる。嫌な感覚があったら、それも平常心で見つめる。ただそれだけなんだけど
例えば、イラっとしたことを思い出したり、嫌な目にあったり、怖い目に合ったりする瞬間に
身体がこわばったり歯を食いしばったり、髪の毛が逆立つとか鳥肌が立つとかいろいろある。
その身体の反応と頭が到達するまでのタイムラグを利用するのでは身体の反応が少し早い。
つまり、身体の反応に気づき、それが頭に登ってくる前に平常心で見つめてブロックする。
そうすると頭も嫌なことを認識できない。
頭に到達してしまったのは、意識下で
してないものは無意識化でブロック。
つまり、UVが到達する前ブロックするか
もうできたシミに対してブロックするか。でも、紫外線を与え続けなければ新陳代謝でそのできたシミも薄くなり
って構造なんじゃないか。
だから無意識でもいいし意識下でもいいのでは。
だから、無意識に登ってくる前にCUT
シミになる前にケアする
トラウマ的なものは繰り返し思い出して身体の筋肉に染みついている。
同じところが反応する。そこに紫外線さえ与えなければシミもいつかは浮き上がるであろう
的なことかな。
最初のうちは直近の嫌なこと
最後のほうは奥に眠っていたトラウマのようなものが掘り起こされというのは
観察の神経がするどくなってくるから、どんな身体の感覚も気づくようになってきて
当たり前の風景のようになじんだ、いつからそこにあるかもわすれた電信柱に気づくようなもの。
現代のガジェットもだけど、人間(他者)は情報量が多く多く、そちらの方がずっとずっと刺激が強いから、その中にいると、うっすらとした細かい感覚に気づくことができないから10日間の隔絶された沈黙が必要なのでは。
そしてまた、悪い感情も、快楽も両方同じように処理することになっている。
何かの中毒による快楽もそうで、
身体が熱を帯びたり唾がたまったり汗をかいてるのかもしれない。
それについても悪い感情と同様に処理する。
楽しいことだったらいいんじゃないかとか、何らかの強い中毒になってもなくても必要なのだろうか? と思ったけども、おなじ身体のシステムの反応を利用するので、どちらかを辞めることはできないんじゃないか。
観察して問題の感覚が消えたらヨシ、1分観察して消えなかったら、放置し、また次に回って見たときに消えたらヨシ。所詮感覚だけでは思考といういエサがない限り、長くは続かない。それが諸行無常。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。アニッチャ。暮らしの知恵。
という理解。
もしかしたら、講話で何か言ってたのかもしれないけど最初のうちは講話時間寝てたので聞いてない笑
でも、これは氷山の一角で、他にも得たものが相当ある。
どんな人におすすめか考えたけども、わからない…
瞑想中めちゃくちゃアイデア出たからアーティストとかいいのではって思ったけど、修行中はメモできないからねぇ…。
なんらかの中毒者とかはいいのかも。ドラッグとか、嫌なことが頭にめぐる中毒。物理的に対象物から距離を取れるし、体の構造を強制的に変えるようなものだし。でも、何らかの中毒者じゃない現代人てそうそういない気もするしな。
仏教って宗教じゃないんじゃないかって気になってくる。
20日瞑想とか
45日間瞑想もあるらしいからやば