チュニジアから訃報が入った。

当時彼はドゥーズのサハラフェスティバルをスペイン人の彼女と見に来ていた。
当時、サハラフェスティバルに日本人が珍しかったようで、祭りそっちのけでテレビかなんかに撮影されて、顔をあげて帽子をとってとか言われたので必死に写らないようにしたりした。
彼と彼女は年末年始、彼のマハディアの実家で過ごすというので招待された。
わたしは他の都市を回った後、マハディアに行ったら迎えに来てくれて、彼の一家と彼女と年明けを築1000年の家で一緒に過ごした。
彼はヨーロッパからの旅行者のための宿を何軒か経営していて、両親弟2人を養っていたし、見た目も老けてたので年上と思っていたが、彼はまだ二十歳の大学生でスペイン人の彼女は40歳だった。

神を信じないのはロバだ。って彼が言ったら、彼女は私はロバで結構よって言ってた。
聖書は4回、コーランは20回以上読んだらしく延々と講義受けるがわからなく、お前はドンキーって言った部分しか理解できず。
お母さんが作った正月に食べる甘いクスクス(ドライフルーツたっぷりでミルクをかけて食べる)が山盛りだったので食べきれなかったら、彼にすごく怒られた記憶がある。
残りは彼が食べてくれた。

弟たちは、そんな彼を尊敬してるらしく、兄はセボンって言ってた。
私がチュニジアってどう?とかなんか聞いたら、政権はクソだ、大学で政府の悪口言っただけで、刑務所に入れられて、って脛にあった拷問の傷を見せてくれた。(今政権変わったしね。時効)
英語、スペイン語、フランス語が堪能で、語学のコツは全てその環境にすることっていってた。あと、その国の彼女を作るとかで。
卒業したら、チュニスエアのメカニックになっていろんな国に行くんだって言ってた。
いろんな国のコインを集めていて、私は帰国してからいろんな国のコインや、おかあさんに和風な小物とか送った。
チュニジアからは私が日本語で書いた住所が日本語で封筒に書かれていて、日本語で書いて届いたって喜んでた。(中身は英語)
聞かなかったので、メカニックになったかどうかわからないけど、確かにいろんな国に行ってたみたいだった。
数回手紙のやり取りしたあとは、10年前、チェコに住んでてそこからメール来たのが最後で。
今朝当時まだ小さかった弟さんからFBから連絡があって。(彼とは繋がってなかったが、なぜか弟さんと繋がっていた)
写真で20年ぶりに見た彼は当時とほとんど変わらない見た目でメッカにいる姿。